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午前五時四十分。東海運送小牧営業所の倉庫には、朝の冷えた空気とディーゼルの排気が混じっていた。 神谷正人は班長補佐として、到着した荷物の行き先と積み込み順を確認していた。名古屋方面の便に載せる箱が一つ、春日井方面の荷物へ紛れている。荷札を見て戻したところで、田中修二が台車を押しながら声を掛けてきた。「神谷、昨日のとんちゃん、まだあるか?」「試作品か?」「ああ。女房にも食わせたい。帰りに買えるなら金は払うぞ」 後ろから大橋邦夫も顔を出した。「俺は煮込みがいいな。二人分、汁も少し欲しい」 正人は少しだけ目を細めた。昨日は味を褒められても社交辞令かもしれなかった。だが今日は、自分から金を払って家へ持ち帰りたいと言っている。「ありがたいけど、まだ売れん。調理する場所も決まっとらん」「なんだよ。もう注文する気だったのに」「ちゃんと売れるようになったら最初に声掛ける」 客になりそうな人間はいる。だが、売れる準備がないのに約束を取れば信用を失う。「おい、神谷」 柴田隆司が配車表を持ってきた。「勤務中に商売すんなよ。会社の車も使うな」「分かっとります。仕入れも販売も、自分の時間と金でやります」「ならいい。岐阜便、確認してくれ」 正人が伝票を見ると、同じ納品先の荷物が別々の台車に載っていた。積み込み位置をまとめるよう指示し、配車表にも印を付ける。届け先で探す時間を減らせる。小さな無駄でも、積み重なれば一日の仕事量を変える。 作業が一段落すると、田中が小声で言った。「今度の競輪、行かんのか?」「行かん」「前は勝ったら奢るって張り切っとったのに」「負けた金で何回奢えたか考えたら笑えんわ」 以前の正人は、勝てば取り戻せる、勝てば家族にも何か買えると都合よく考えていた。千鶴の三万円まで車券に変えようとしたのも、その延長だった。
宮崎隆志が静岡から名古屋へ戻ったのは、妹の神谷千鶴が退院して間もない頃だった。 二十九歳。地元の産業機械会社に勤め、二年ほど浜松の営業所へ出向していた。月に一度は実家へ電話を入れていたが、仕事が立て込めば帰省は延びる。千鶴の出産が近いことも知っていたものの、自分が離れている間に妹が命の境をさまようことになるとは思っていなかった。「千鶴は?」 実家へ戻って最初に聞いたのは、それだった。「もう家よ。赤ちゃんも一緒」 母の宮崎美恵子が湯呑みを置く。「女の子。ひかりちゃんって名前にしたの」「……そうか」 隆志は大きく息を吐いた。 妹が生きている。 姪も無事だった。 それだけで、胸の奥に張りつめていたものが少し緩む。「正人は?」 美恵子の表情がわずかに曇った。「仕事へ戻ってるそうよ」「競輪は?」「今のところ行ってないって」 隆志は黙った。 神谷正人。 妹が結婚した当初、隆志は正人を嫌っていたわけではない。口数は少ないが働く男で、千鶴が選んだのならそれでいいと思っていた。 だが、少しずつ酒へ逃げ、競輪へ通い、借金まで作った。 そして最後には、千鶴が出産のために残していた三万円へ手をつけた。 その話を聞いた時、隆志は浜松の社宅で受話器を握りしめた。すぐ帰ろうとも思った。だが千鶴本人から「今は来なくていい」と言われ、美恵子にも止められた。 その判断が正しかったのか、今でも分からない。「正人さん、毎日病院にも来てたそうよ」 美恵子が続けた。「仕事へ戻ってからも?」「ええ。給料もちゃんと家へ入れてるって」「……そう」「それと、商売を考えてるみたい」 隆志の眉が動いた。「
翌朝、神谷正人が東海運送小牧営業所へ着くと、営業所長の三浦泰三が倉庫の入口に立っていた。「神谷。今日も昨日と同じ配置でやってみろ」「分かりました」 一日だけ早かったのなら偶然で済む。荷量や到着時刻が、たまたま噛み合った可能性もある。 だが、正人が五十年の経営で嫌というほど学んだのは、偶然の好成績には価値がないということだった。誰がやっても同じ結果へ近づける仕組みにして、初めて改善と呼べる。 正人は柴田隆司と相談し、名古屋、春日井、岐阜方面の荷物を出発順に分けた。重量物を先に寄せ、荷札は通路側から読める向きに揃える。空台車の戻し場所も固定した。「田中、それは後でいい。先にこっちを終わらせよう」「早く動いた方が早いんじゃないのか?」「同じ荷物を二回運ばん方が早い」 田中修二は「ああ」と頷き、台車を押す方向を変えた。 午前便の積み込みは、昨日よりさらに八分早く終わった。「昨日だけじゃなかったな」 三浦が腕時計を見た。「柴田。神谷を正式に班長補佐へ上げる。来月から手当も付ける」「分かりました」 周囲がざわつく中、正人は頭を下げた。「ありがとうございます」 最初に考えたのは、増える手当を何に使うかだった。 前の自分なら競輪場へ持っていった。少し増えた金を元手に、もっと増やせると本気で信じていた。 今は違う。 家へ入れる金が増える。 千鶴とひかりの生活に回せる。 それだけでよかった。 午後、丸徳食肉への集荷が入った。「柴田班長。俺も丸徳へ行っていいですか?」「大橋と行ってこい」 丸徳食肉の加工場には、昨日と同じ冷気と肉の匂いが満ちていた。正肉の箱の脇では、豚の腸や胃などが部位ごとに分けられている。 徳田健次が正人を見る。
午前五時四十分。東海運送小牧営業所の構内には、まだ朝靄が薄く残っていた。 ディーゼルエンジンの低い唸り、荷台の扉を開く金属音、台車の車輪がコンクリートを削る音。神谷正人は作業着の袖をまくり、並んだトラックと倉庫の入口を見渡した。 「本当に一番に来たのか」 背後から声を掛けたのは班長の柴田隆司だった。 「昨日そう言いましたから」 「娘が生まれたら人間まで入れ替わるのか?」 「それなら安いもんです」 柴田が鼻で笑う。以前の正人なら、始業ぎりぎりに酒の残った顔で現れ、重い荷物を押しつけられれば文句を言っていた。その正人が今日は誰より早く来ている。 作業が始まると、さらに違いが出た。 正人にフォークリフトの資格はない。五十年後の物流会社で車両や倉庫の仕組みを知り尽くしていても、昭和五十一年の自分に許されていない機械へ勝手に乗るほど愚かではなかった。 台車を押し、段ボールを運び、伝票と荷札を照合する。その間も目だけは現場全体を見ていた。 名古屋方面の荷物が春日井便の動線へ張り出している。奥へ積むべき重量物が手前にあり、積み込み時に一度降ろしている。空いた台車が戻る方向と、次の荷物を取りに行く人間が逆向きに交差していた。 五十年後なら、倉庫管理システムの数字で拾える無駄だ。 今は人の足と目で拾う。 「柴田班長。この名古屋向け、壁側へ寄せたらまずい理由あります?」 「いや。なんでだ」 「今の場所だと春日井便を出すたび二回動かしてます。重量物を奥側へ先に分けて、台車の戻り道も一本にした方が詰まりません」 正人は勝手に動かさなかった。 一見無駄に見えても、破損防止や取引先指定など理由がある場合がある。現場を知らずに改革を叫ぶ経営者が会社を壊す場面を、前の人生で何度も見てきた。 柴田は数秒考えた。 「やってみろ。午前便だけな」 「はい」 正人は田中修二、大橋邦夫にも声を掛け、荷物の位置を数メートルずつ変えた。大改革ではない。荷札の向きを揃え、配送順に固め、空台車の戻し場所を一つにしただけだ。 それでも最初の三台の積み込みが、普段より十七分早く終わった。 「……神谷」 柴田が腕時計を見る。 「お前、前からこれ気づいてたのか?」 「今日気づきました」 「嘘つけ」 正人は笑った。 十七分は小さい
翌朝、神谷正人が目を覚ました時、借家の中は妙に静かだった。 昨日までなら、台所から包丁の音が聞こえ、千鶴が朝飯を作っていた。だが今は誰もいない。千鶴は出産後の経過を見るため病院に入院したままで、生まれたばかりのひかりも当然、母親と一緒に病院で看護を受けている。 正人は布団から身体を起こし、しばらく薄暗い部屋を見回した。 六畳二間。 古びた卓袱台に、小さな箪笥。壁際には扇風機があり、台所には使い込まれた鍋が二つと、欠けた茶碗が並んでいる。千鶴の服には何度も繕った跡があり、赤ん坊のために用意されていた布おむつも、新品ばかりではなかった。 「……貧しかったんじゃないな」 正人は小さく呟いた。 真面目に働いていれば、妻子を養えないほどの給料ではなかった。 自分が家へ入れなかったのだ。 酒。 煙草。 競輪。 給料日前になれば同僚へ借り、勝った時だけ景気よく奢り、負ければ次の給料で返せばいいと考える。八千億円企業の会長だった正人の目で見れば、若い自分の金遣いは経営どころか管理ですらなかった。 穴の空いた桶へ水を注ぎながら、水が足りないと怒鳴っていたようなものだ。 正人は卓袱台の上を片付け、家中の金に関するものを集め始めた。 給与袋。 家賃の領収書。 酒屋のツケを書いた紙。 同僚から借りた金を自分で雑に書き付けたメモ。 そして箪笥の奥から、小さな大学ノートが出てきた。 千鶴の家計簿だった。 一頁ずつ開く。 米。 味噌。 醤油。 野菜。 灯油。 電気代。 病院代。 赤ん坊用の晒。 石鹸。 家賃。 細かな金額が几帳面な字で並んでいる。 正人は途中で手を止めた。 『正人さん 給料より 生活費』 『今月 八千円』 『酒代と思われる 二千五百円』 『競輪 不明』 胸の奥が重くなった。 千鶴は、自分がいくら浪費したのかすら正確には把握できていなかった。 「……よく、やっとったな」 少ない金を削って、削って、それでも子どもを産む準備をしていた。 正人は新しい紙を一枚出し、借金を書き始めた。 同僚の田中から二万五千円。 先輩の大橋から一万二千円。 酒屋のツケ八千円。 その他の細かな立替や未払いを合わせると、およそ六万円。
どれほど待ったのか、神谷正人には分からなかった。 閉ざされた扉だけを見つめ、何度も両手を組み直していた。 やがて、その扉が開く。「神谷さんですね」 医師の声に、正人は弾かれるように立ち上がった。「はい」「奥さんは出血がありましたので、そのまま出産を進めました。母体も赤ちゃんも注意が必要な状態でしたが、早く搬送していただけたのは大きかったです」「それで……」 喉が張りつく。 聞くのが怖かった。「千鶴と……子どもは?」 医師の表情が柔らかくなった。「お二人とも無事ですよ。女の子です」「……二人とも?」「はい」 正人の膝から力が抜けた。 長椅子へ座り込み、両手で顔を覆う。「生きてる……」 涙が止まらなかった。 七十四年の人生で、いくら金を稼いでも取り戻せなかった二人が、今は生きている。 それだけでよかった。 少しして、生まれたばかりの娘を見せてもらった。「元気な女の子ですよ」 看護師が微笑む。 正人は息を呑んだ。 小さい。 赤みを帯びた顔。細い腕。頼りないほど小さな身体。「触っても……?」「大丈夫ですよ」 恐る恐る人差し指を近づける。 すると小さな手が動き、正人の指を握った。「……俺が、父ちゃんか」「そうですよ。お父さんです」 反射なのかもしれない。 それでも正人には、その小さな力が胸の奥まで届いた。「ありがとうございます」 看護師へ深く頭を下げる。 自分が救ったなどとは思わない。 医師が処置をした。







